なぜ宇宙環境で腸内細菌叢を測るのか
長期宇宙滞在は、地球上ではめったに遭遇しない物理化学的条件をヒトに課します。微小重力、宇宙放射線、閉鎖環境、再循環大気、ストレス、運動量と日射の不足、食事の制約。これら複数のストレッサーが同時にかかる状況で、腸内細菌叢がどう振る舞うかは、(a) 飛行士の健康管理、(b) 長期有人探査(月、火星)の現実性、(c) 一般地上居住者の慢性ストレス応答モデル、という3つの観点で重要です。
NASA とその共同研究者は、ISS に長期滞在する飛行士のサンプルを継続的に解析してきました。Voorhies らが 2019 年に Scientific Reports に発表した報告 [1] は、その代表的な成果の一つです。
Voorhies 2019 の観察
研究デザインは以下のとおりです [1]:
- 対象:9 名の ISS 飛行士(滞在期間 6〜12 か月)
- サンプル:消化管(糞便)、皮膚、鼻腔、舌の微生物叢
- 時点:飛行前、飛行中(軌道上で複数回採取)、帰還後
- 解析:16S rRNA 配列、メタゲノム、サイトカインプロファイル
主要な所見は3つです。
第一に、軌道上で 腸内細菌叢の組成が飛行士間で類似化 しました。地球上では個体差が大きい菌叢が、ISS という同じ環境にさらされて構成が収束する方向に動きました [1]。
第二に、いくつかの優勢菌の存在比が低下し、それと サイトカインプロファイルの変化が相関 しました [1]。具体的には、Bacteroidetes と Firmicutes の比率が変動し、ヘルパー T 細胞関連のサイトカイン(IL-4、IL-10、IFN-γ など)に変動が見られました。
第三に、皮膚マイクロバイオームの変化は、軌道上で頻発する皮膚過敏症・発疹に対応する可能性が示唆されました [1]。
帰還後、菌叢は一部回復するものの、完全には飛行前の状態に戻らない個体差も観察されました。
機序的な解釈
なぜ軌道上で菌叢が収束するのか。Voorhies らは複数の要因を議論しています [1]:
- 食事の均一化:飛行士全員が事前に調整された宇宙食を食べる
- 環境暴露の均一化:ISS は閉鎖系で、空調・水質・微生物環境が地上と異なる
- ストレス応答の共通性:HPA 軸の活性化、コルチゾール上昇が腸管環境を変える
- 微小重力による腸管運動性変化:腸管通過時間とニッチ構造の変化
- 免疫機能の変化:宇宙滞在中の免疫機能調節障害(再活性化ヘルペスウイルスなど)
これらの結果として、特定の優勢菌が選択され、SCFA 産生 [4] と腸脳軸の信号伝達 [2] が連動して変化する、というのが現時点での仮説です。
地上の発酵食研究との接続
Wastyk 2021 [3] が地球上の健常成人で「発酵食品高摂取が菌叢多様性を上げ、19 種の炎症性タンパク質を下げる」ことを示したのと、Voorhies 2019 [1] が「軌道上では菌叢が収束しサイトカインが変動する」ことを示したのは、対称的な観察 として読めます。地上では発酵食で多様性を増やすことができる、軌道上では現状の宇宙食では多様性が下がりサイトカインが乱れる、という構図です。
この構図は、長期宇宙滞在における食料システム設計に直接の含意を持ちます。再循環型・閉鎖系で生産可能な発酵食を、宇宙食メニューに組み込むことができれば、軌道上での菌叢多様性と免疫応答を地上に近づける一手段になりうる、という研究仮説が成立します。
Space Seed Holdings の事業構想
Space Seed Holdings(SS-HD)は「宇宙×発酵」を3つの事業領域の一つに掲げています。これは情緒的なテーマではなく、上記のような機序仮説に立脚した事業領域です。具体的には、(a) 長期宇宙滞在を想定した発酵食料の保存性・栄養機能性の研究、(b) 宇宙利用研究を通じた発酵代謝物の地上応用、(c) 完全資源循環型の食料供給システム、という3層で構成されています。
筆者(鈴木健吾)はかつて微細藻類事業に従事した時期があり、その経験で得た「閉鎖系での生物生産」の知見は、宇宙食料系の議論と地続きです。Voorhies 2019 [1] のような観察は、地上の発酵研究と宇宙利用研究を別々の文脈ではなく、同じ機序の異なる条件下のあらわれとして整理する助けになります。
残された問い
Voorhies 2019 のサンプルサイズは 9 名と限定的で、個体差を完全に解析するには規模が不足します [1]。後続研究では、JAXA・ESA・ROSCOSMOS との連携で、より多くの飛行士のサンプルを長期に追跡する枠組みが整いつつあります。月・火星探査が現実化する2030年代以降を見据えると、「食事介入と菌叢応答」の研究は、宇宙生理学と地上の長寿研究の双方にとって重要なリソースになります。
まとめ
Voorhies 2019 [1] は、軌道上で腸内細菌叢が一定方向に変化し、サイトカインプロファイルと相関することを示しました。地上の発酵食介入研究 [3] と対比すると、菌叢の多様性と免疫応答が「動かしうる指標」として両方の文脈で機能していることが見えます。長期宇宙滞在を想定した食料系研究は、地上の長寿研究と直接つながる学術領域です。
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